2011年12月27日火曜日

修行グセにご注意を

若い頃は「とにかく何でも経験だ」と
言われます。それはほんとにその通り。

大変な事や気の進まない事も
率先して取り組み、
上司や先輩の言うことに従う。
そして、そこからひとつでも多くを盗み、
自分の成長の糧としていく。

いわば修業期間。
そして、修行に終わりはありません。
すべてを師とできる人は強い。
そういう人は成長が止まらない。
自分もそのようにありたい、と
常日頃から思ったりします。

もはや決めゼリフのようになってきましたが、
このことにまったく異論はありません。
だけど「修行グセ」というものには
やっぱり気をつけた方がいいと思うのです。

30代に差し掛かる僕の歳だからこそ
思うのかもしれないですが、
「偉大なる先輩たち」を
何らかのタイミングで
「ライバル」と変換しなくては、
いつまでも同じ土俵に立てないような気がします。

いつもふたつの目を持ちながら、
片方では、先輩として尊敬と勉強の姿勢を絶やさず、
もう一方では、密かなライバルとして虎視眈々と逆転をねらう。

ガツガツしても疲れるので、
ナチュラルにそんな姿勢で生きられたらと、
ふと思うのでございました。

2011年12月17日土曜日

経験則ブギ

「それはそうなんだけど、
それだけじゃないんじゃないか?」
と思ったりする事があります。

素直さを欠く視点ですから、
下手すると唯我独尊にもなりかねないので、
使いすぎないようにしなきゃいけないですけどね。

はい、それはわかった上で、
やっぱり思うところがあるので、
書いてみます。

年輩の方は経験則に基づいて、
アドバイスをくれます。
それはもう、肯定とか否定とか、
そんなレベルじゃなく受け止めるべき事です。

ですが、経験則を信じすぎるのも
それはそれで危険な事です。
ましてや、時代は年々変化のスピードを速め、
さらに進んでいく方向だって、
一直線に上昇していく事はなく、
ひたすら蛇行しているような状態ですから、
経験則が急速に古びてしまうこともあるわけです。

経験則に基づいたアドバイスというのは
後から来る者が、前を行く者と
同じ道を歩いているという事が前提となります。

同じ道を歩いているからこそ、
「あそこでは熊が出るから気をつけろ」
「しばらくオアシスがないから水は極力我慢しろ」
といったアドバイスができるわけです。

そのため経験則からのアドバイスというのは、
「同じ道を歩いている」という確信があれば、
すべて素直に聞けばいいと思うのですが、
そこにもし疑問があるようであれば、
やはり受け取る側も自分なりに
解釈をしなおす必要があると思うのです。

もちろん「同じ道を歩いている」というのは、
イコール「同じ幸せをめざしている」ということ。

何度も言いますが、
経験則を否定しているわけではありません。
受け取る側も自己責任のもとに
経験則を活用しないといけないよなあ、
ということです。

2011年12月9日金曜日

正しい伸ばし方

「ほめて伸ばす」と
「叩いて伸ばす」という
言い方があるけど、
この「叩いて伸ばす」っていうのは、
本当にいい方法なのか?と
疑っている今日この頃。

メカニズムを整理していくと
こういうことなんだと思います。

◯「叩いて伸ばす」のメカニズム
叩かれる(=否定される)→悔しい→努力する→伸びる

◯「ほめて伸ばす」のメカニズム
ほめられる→うれしい→またがんばる→伸びる

「叩いて伸ばす」のメカニズムも
まあ、わかる気はするし、
実際それで伸びた人も見たことあります。
伸ばす人としてではなく、伸びた人でもなく、
第三者として。

ただ、当然のこととして
「悔しい」から「努力する」へのステップで
脱落する人も出てきます。
この人は「叩かれて伸びなかった人」となるわけです。

一方で「ほめて伸ばす」の場合、
「うれしい」から「またがんばる」へのステップで
がんばれない人が出てくる、という意見があったりします。
「うれしい」で満足して止まってしまうと言うのです。
「叩いて伸ばす」が好きな人は、
この点を主張します。

でも、ほんとに「うれしい」で
満足して止まるのか?と思うわけです。
よっぽどの怠け者じゃない限り、
ほめられるとがんばっちゃいますよ。
だって、もっとほめられたいし、
みんな、自分をほめてくれる人は
好きですからね。
その人の期待にもっと応えたいと
考えるのが、素直な反応だと思います。

それに、もっと単純な比較として、
悔しくて力を出せる確率と、
うれしくて力を出せる確率って
どちらが高いんでしょうか?

こんなシンプルな確率論は
頭じゃなくて心で考えれば、
すぐに答えが出ると思うんですけどね。

「人類みな、ほめられて伸びる子」
甘っちょろいと言われるかもしれませんが、
これが僕の中での答えです。

2011年12月7日水曜日

感情が伝わっていく時代

ふと思い出した「IT革命」という言葉。
久しぶりに聞いた気がしませんか?
そしてもうすでに、
古くさく感じませんか?

Webの普及は
テレビなどの古いメディアを
王座から引きずり下ろしました。
玉ねぎの皮を剥いていくように
旧メディアの価値を無力化していき、
芯の部分にあった「情報」だけが
最終的にその場に残っていて、
とどのつまりは
「情報」そのものに
価値をあたえる結果となったのです。

そして、さらに時間は前に進み、
ソーシャルメディアが登場。
情報の発信・受信がより
リアルタイムになったことはもちろんですが、
それよりも感じるのが、
自分を360度から見られている感覚です。

毎日の食事を写真とともにアップする人。
「食べる」ということを
大事にしていることが伝わってきます。
これを「情報」という切り口だけで見てしまうと、
その人が何を食べているかを
知るだけのツールになってしまう。

だけど、伝わることはそれだけじゃないはずです。
食事を心の底から楽しんでいることや、
普段は入らないお店への好奇心旺盛な様子なども
そこにはあふれているはず。
伝わることの総量で見ていくと、
きっと「情報」の量よりも、
「感情」の量のほうが多いのではないでしょうか。

それは、直線的なベクトルで「伝えるもの」というよりも、
放射線的ににじみ出ていく「伝わってしまうもの」と
捉えた方がいいかもしれない。

自分を360度から見られている感覚というのは、
そういう意味ですが、
これは決してネガティブな意味ではなくて、
自分を360度から「見せることができる」と
言い換えられると思います。

まあ、そんなこんなで、
今後セルフブランディングという言葉が、
日常用語になっていくのでしょうが、
情報勝者ならぬ「感情勝者」というものが
出てきてもおかしくないような、そんな予感がします。

つまりは先日の「楽しそうな人最強説」に
つながるんですけどね。
あー、楽しい(ヘタクソ)。

2011年12月3日土曜日

楽しそうな人最強説

最近わかってきたことは、
「楽しんでる人は強い」ってこと。
楽しそうというだけで何だか魅力的だし、
結局そういう人のところに
人も仕事も集まるように思います。

逆のこともまた当然のように起こるわけです。
つまらなさそうな人、
不満っぽい人、愚痴っぽい人とは、
距離を置きたくなるのが人情というもの。

前者と後者で何が違うのか。
楽しそうな人はラッキーなことばかり起こっているのか。
つまらなさそうな人は不幸のループに陥っているのか。
それはそうなんだけど、
実はそうじゃないんじゃないでしょうか。

楽しそうな人だって残念な出来事はあるだろうし、
つまらなさそうな人だって
幸せのかけらは降ってきているはず。
もっと言えば、現象そのものには
「楽しい」とか「つまらない」とか
そんなもの決まってなくて、
それを受け取った人が、
どう感じるかを決めているだけだと思うのです。

楽しいことが起こるから
楽しいのではなくて、
何でも楽しんでいるから
楽しく生きられる。

つまらないことが起こるから
つまらないのではなくて、
何でもつまらなく感じているから
つまらなく生きてしまう。

…と、ここで結論づける気はありません。
こんなこと、あやしい宗教ですら言っている。
だけど、人間そんなに器用に生きられるわけがない。
それはよくわかってるので、ここでまた提案です。

「楽しい」と思ったことは積極的に
たくさんの人に振りまく。
「つまらない」「不満」「愚痴」の類いは、
極力自分の中に留めておく。
もしくは、ひとつの「つまらない」につき、
一人にしか伝えない。
これ、そんなに難しくない上に、効果絶大です。

昔見た大阪のローカル番組で
「おばあちゃんに好きな食べ物を尋ねると、
“なんでも食べるよ”と答える」という法則を
検証したものがありました。

結果は本当にその通り。

人生の達人たちは、
どんなものもおいしくいただいてしまうのです。
嗚呼、リスペクト。

2011年12月1日木曜日

ほうれん草

社会人の初心者が
先輩たちからよく言われる言葉に
「ホウレンソウ」というものがあります。

「報告・連絡・相談」の略で、
情報共有することで当事者を増やすことができたり、
うまくいっていないことを
未然に周りに知らせることができたりと、
仕事のリスクを最小限にしていくために、
とても大事なことです。

仕事がスムーズにいっていない時は
よくよく見直すと、大体の場合で、
この「ホウレンソウ」が
おろそかになっていたりします。
それくらい、仕事人にとって
初歩中の初歩であり、欠かせない基礎能力です。

それはもちろんそうなのですが、
一方で「ホウレンソウ完遂型人間」と
なってしまう人もいます。
これはつまり「ホウレンソウ」をした時点で、
自分で考えたり判断することを
ストップしてしまう人のこと。

「先方が○○とおっしゃっているのですが、どうしましょう?」
「あの案件××という状態なんですが、どうしたらいいですか?」

つまり、相手に判断をすべて委ねているんです。

こういう姿勢になってしまうと、
ホウレンソウを達成した時点で
「私の仕事は終了です」となってしまう。
そこから先は、上司なのか先輩なのか、
ホウレンソウをした相手の判断がすべてとなってしまいます。
悪くいうと、丸投げ。

このスタンスを続けていると
いつまでも「お伺いを立てる」立場でいてしまうし、
仕事をまかせる側からしても、
最終的に頭を使う仕事をしなくてはならないので、
手離れが悪くなってしまう。つまり、まかせる意味が目減りする。
お互いによくないわけです。

ここで提案なのですが、ホウレンソウをする時は、
「僕はこうしたいんですが、構わないでしょうか?」
と、Yes/Noで答えられるように
投げかけるというのはどうでしょう。

聞く側からすれば、自分の判断を中心にしながら
仕事を進められるので、上司や先輩を交えても
仕事の主人公のままでいられる。

聞かれる側からしても、
とりあえずYes/Noの判断をすればいいので、
かけるパワーと時間が少なくて済む。
また、まかせた側の人間が
どれだけ現状をコントロールしながら
仕事を進めているのかが把握できるので、
安心感も持てる。

どちらにとっても嬉しい状態と
なるんじゃないでしょうかね〜。

さて、これを「ホウレンソウ」ではなく
判断・共有・ラン○○と言い換えて
「ハンキョウラン」という新語を生み出そうとしたのですが、
ランで始まる単語が浮かばなかった上に、
ビジネスの現場で「ハンキョウラン」という言葉が
飛び交うのもいかがなものかと思うので、
謹んで辞退したいと思います。あしからず。

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